日記 音楽性についての記事への捕捉

 先日書いた記事について、通常の私の記事と比較してかなり多くの反響がありました。

memorandum-of-headphone.net


 そもそも日記カテゴリのみで書いた事から推察出来るかもしれませんが、どちらかと言えば普段考えていることを書き留めた様な力の入れ方でした。
 その為、長文になる事を嫌ってある程度省いた内容もあり、また直接的にしろ間接的にしろ色々と反応もいただきましたので、いくつか捕捉したいと思います。

 

1.不完全性を理解した上での特化

 基礎性能がそのまま音楽性を引き出すことに繋がる事、広範にわたって音楽性を引き出すにはニュートラルである必要がある事、この辺りについては以前の記事で触れた通りです。
 では、翻って脚色は悪なのか、音楽性を引き出すことにとってマイナスにしかならないなのか、と言うと必ずしもそうでは無いと考えています。
 世の中には多くの製品が存在し、そのほぼ全てで金銭的なコストの問題があります。と言いますか、コスト度外視の製品など例外中の例外(かつ、その金額は気が遠くなるレベル)です。
 特に低価格帯の製品においてはその制約は非常に厳しく、基礎性能を求めると言っても限界があります。
 だからこそ、万能性は諦めむしろある程度使用されるシーンを限定し特化する、あるいはその限られた領域で生きるような脚色を施したり敢えて残すという事は、むしろ大いに有りだと考えます。
 ヘッドホンの中においてそういった方向性で、特に評価が高いのがKOSSとGRADOの機種でしょう。
 前者はKSC75、PortaPRO、SportaProが有名で、恐らくこれらについて忠実寄りであると評価している人はかなり少ない筈です。
 私はこれらは所有したことが無く試聴ではPortaProしか聴いた事はありませんが、とても忠実系の音だとは思えませんでした。基礎性能で見ても、決して高いとは言えないでしょう。
 ですけど、特にPortaProとSportaProについては多くの人に愛された商品で、名機と言って差支えない機種ですし私もそう思います。
 また、GRADOについてはSR325iを所有していますし、試聴でもそれなりの機種を聞いた事が有ります。
 その中で私が掴んでる特徴としては、基本的に忠実に情報量を引き出すタイプでは無く、むしろある程度情報を間引く系の音だと認識しています。この辺りは価格帯によって程度に差はありますが、概ね共通しているように思います。
 ですがそれで音が軽くなったりはしておらず、見晴らしの良さ、抜けの良さ、爽快さといった面で見れば極めて優れており、これらの点に限って言えば人によっては随一のメーカーだと判断するでしょう。
 私自身は求めている個性では無いので基本的に追ってはいないのですが、人によっては決して替えの効かないメーカーとなり得ます。
 特にヘッドホンは複数所有することも、使い分けることも決して難しく無いことから、こういった特化はむしろ望ましい一面もあります。
 また、オーディオにどれだけお金をかけられるかは、それぞれの事情や価値観によって大きく違います。
 ですが、基本的に基礎性能を求めれば求める程、相応にコストがかかるというのが現実です。少なくとも、これまででそこを打ち破ったメーカーは存在していません。
 だからこそ、お金をかけなければ良い音が聴けないのでは無く、どんな価格帯だろうと音楽を楽しめるように設計するというのは大切な事で、その為に脚色を施すというのは十分有りな考え方でしょう。
 最高級の食材であれば可能な限り素材の味を引き出すことが良いのでしょうが、そうで無い場合はむしろ適切に調味料を使用し調理したほうが良いのと同じことです。
 そして仮にその脚色を音楽性と言うならば、その意味する所や使う所をちゃんと特性に合わせて限定するのならば、頷けない話ではありません。

 

2.一口に音楽性と言ってもね……

 それでも私が音楽性という言葉を使う事を忌避するのは、文脈や状況によってあまりに意味が変わってしまい、その意味を類推するのに無理が出てくることが多いからです。
 例えば鳴らしている音楽が何なのか、仮にポップスだとしてもそれが男性ボーカルなのか女性ボーカルなのか、バラード調なのかアップテンポの曲なのか。
 また、女性ボーカルに限定しても艶っぽさ重視したほうがいいのか、透明感が有ったが良いのか、それともハスキーなのを上手く捉えられるのが良いのか。あるいはボーカルを魅力的に捉えるだけでは駄目で、特定の楽器を上手く鳴らす要素も必要なのか等など。
 ジャンルを限ってさえその音楽性を引き出す特性は色々あり、多くのジャンルにまたがるのであれば更に要素は増えます。
 だからこそ、オールジャンルにおいて音楽性を引き出すためにはニュートラルである必要があり、脚色に頼らない基礎性能の高さが必要になります(脚色はニュートラルから遠ざかる要素の為、限界がある)。
 しかし私が観察する中では、音楽性が基礎性能とは別の要素として語られている等、どう読み解こうとも矛盾してしまう、あるいは適切な要素に置き換えられない事が少なくありません。
 せめてどんな音楽を鳴らして音楽性があると言っているのか分かればまだ良いのですが、そういう表現する場合に限って鳴らした音楽をちゃんと書いてなかったりします。
 場合によっては闇雲に又は事実に反して褒める、あるいは貶す為の方便でしかないと判断せざるを得ないケース(要は提灯持ちあるいは誹謗中傷)すらあります。
 だからこそ、私自身は機器の批評する際には使わないようにしているという事です。

 

3.終わりに

 以前の記事で、物事を表現する際に、具体的に表現しようとすればするほど本質から遠ざかる場合、抽象的な表現が許容されるべきだと書きました。
 ですが、これは可能な限り抽象的な表現を排する努力をし、具体的に表すことを志したうえで、それでも無理な場合の話です。
 抽象的な言葉が許されるべきだからと言って、それを乱用するのは単に曖昧なだけになってしまい、事実を覆い隠してしまいかねません。
 音楽性という言葉をしっかりと吟味して使っている、やむを得ず使っていると感じることはとても少なく、むしろ物凄くフランクに使われていると言わざるを得ないのが現状だと思います。
 その意味が類推できる場合はまだ良いですが、先にも述べた通りどのような意図で使っているかが不明だったり、時には矛盾している事すらあります。
 こういった曖昧な表現に頼る事は、下手をすると思考停止を引き起こしまうと私は考えています。そこで思考が完結しても良くなってしまい、その先に思考が進んでいかないからです。
 どんな趣味であろうと思考停止に陥ってしまう事は、私は一番避けるべきだと思っています。何も考えない趣味は、最早趣味では無く只の時間潰しの様に思えてしまうからです。

 

 今回に限らず、私が書いたことはあくまで私がこう考える、こう行動するという事に過ぎません。
 それを他人に強要したいとは思いませんし、それぞれが自由であるべきなのは言うまでもありません。
 けれど、自分がそれなりに情熱を、あるいは意識を傾けた事に対して、思考を重ねることで得られる楽しみもあるのだ、という事は知って欲しいなとも思うのです。
 音楽性があると感じる、それは何ら悪い事では無いのです。ですけど、そのように感じる要素は何なのか一歩進んで考え続けた時、今まで意識していなかったことを意識できるようになる瞬間があります。
 私は音楽性という言葉について疑問に思い考え続けた結果、音楽性は機器では無く音楽に宿るものであり、それらをいかに引き出すかがその機器の性能の一つである。そして、それは機器の基礎性能と決して無縁ではない、むしろ分かちがたく結びついているというのが、今の所たどり着いた認識です。
 しかし、これはあくまで現状の私の認識であり、今後も思考を続けることでまた変遷するのかもしれません。
 けれどこうしたことを繰り返すことで、自分が変化していく事が趣味を通じて得られる楽しみの大きな一つであり、時に成長にも繋がるものなのではないかと思うのです。