日記 忠実性についてと人間の感覚の話

 以前記事にしたqobuzについて、結構前の話ですがサービス開始延期のお知らせがでてましたね。個人的には朗報と悲報の両方が入っているお知らせでした。
 悲報は勿論サービス延期であり日程すら明記されていないので、いつサービス開始されるか分からない事。
 朗報については、e-onkyoのデータとqobuzのシステムとの不整合という事で、ちゃんとe-onkyo側の資産も提供される見込みが高いという事です。
 ま、これについては気長に待つしかないでしょう。


 さて、本日の話はヘッドホン等の忠実性についての話とその派生のお話。
 考えるきっかけはX(旧twitter)のTLに流れてきた、”胸やけするコーヒー”の話題から(直接名指しはしないけど察して)。
 書いている内容を見ると、あまりに見えている世界が違いすぎて「うわあ……」という感想しか抱けず、ついでに色々と考えさせられました。


 オーディオの世界では原音忠実という言葉が使われがちです。
 私はこの言葉があまり好きでなく、忠実度が高いとか、脚色や色付けが少ない等と表現することが多いです。
 それは、原音忠実と言うためには、その原音を知っていなければならないと思うから、そしてそれは実質的に不可能だと考えるからです。
 では、どういう場合に忠実性が高いと評価していると言えば、様々な音源を鳴らしてみて特定の方向に傾かない表現をしている場合です。
 音が柔らかい、硬い、鋭い、鈍い等他にも多様な特性を、しっかりと音源に応じて表現できるか、一辺倒になっていないかという事ですね。
 だからこそ、少なかったり限られたジャンルの音源だけで評価することは結構危険で、多くのジャンルの曲を満遍なく聞いた方が評価の確度は上がると感じています。
 また、ある機種を評価するときはその機種単体で評価するのではなく、他の機種と相対化することも大切だと考えています。
 これらは全て、自分だけの感覚に基づいた、独りよがりの判断をするのをなるべく避けるという事でもあります。

 そう考えるようになった主な理由の一つに、ミックスやマスタリングを生業とするエンジニアの方々の情報があります。
 結構いろんなエンジニアの方々が様々な情報を発信してくれているのですが、殆どの方がリファレンスを用意する事の大切さを口にします。
 彼らは音楽制作のプロとして日々活動されている方々であり、音に対する感覚は一般人よりも遥かに鋭いと言えるでしょう。
 そんな方々が、自分だけの感覚で作業することの危険性をこれ程までに口にするのは、いかに人間の感覚に揺らぎがあるのかという事を伝えていると思うのです。
 人の感覚は確かに時折物凄い鋭さを発揮しますし、時には高精度な機械ですら判別が難しい違いを感じ取ったりもします。
 ですが同時に、簡単に狂ったり鈍くなったりするものであり、僅かな体調の変化に左右されたりもするという揺らぎや狂いがある物でもあります。
 だからこそその狂いを正すための基準を持つことが大事であり、それは己の内部にあってはならないという事でしょう。

 そしてこの考え方は、自分の意見と周囲の意見が食い違う時にも、大切な考え方だと思うのです。
 もっと具体的に言えば、ある機種を評価するときに自分だけ(あるいは自分を含めた限られた人)の意見と、周囲の多くの人の意見が異なる時に、自分の感覚の方に狂いがあるのではないかと疑うという事です。
 ましてや、自分の感覚や意見を絶対視し、他の意見など知りもしないし耳を傾けないというのは、あまりに危険だと思うのです。

 これについては、私が競技スポーツに取り組んでいた事も多少関係しているかもしれません。
 何故かと言えば、「努力は必ず報われる」という言葉は真でもあり偽でもあるという事を、否応なく突きつけられるからです。
 それはとても簡単な話で、努力しているのは自分だけでは無いので、確かに努力した分の結果は返って来るという意味では正しいけれど、報われるのは最も質の高い努力した人になる(そして殆どの場合それは自分ではない)という事です。
 だからこそ、自分が取り組んでいることが本当に正しいのか、他者はもっと質の良い努力をしているのではないかという恐怖が付きまといます。
 「自分が誰よりも努力している」、自分の努力にだけフォーカスしそう考えると大抵の場合痛い目を見ます。
 もちろん自分がやっていることを完全に否定するような疑いを持つこともまた良くは無く、常に自分を疑いながらそれでも信じてもがき続けるという、矛盾した状態を維持することが割と最適解に近いのではというのが今の所の私の考えです。

 自分だけが他の人が気付いていない部分に気付いている、自分だけが真価を知っている、そう考えるのは気持ちのいいことなのかもしれません。
 ですけど、私の経験上大抵の場合それは錯覚で、後で色々と思い知らされる事が多いです。
 それは、自分の意見や感覚を絶対視せず、常に周囲と相対的に見ながら捉える事が重要という事でもあります。
 勿論、人と違う意見を持つことが悪いことだという訳でもありません。
 他者には評価されていなくとも自分にとっては代えがたい価値を持つこともあるでしょうし、好き嫌いに関してはむしろ他者が意見するのは野暮という物でしょう。
 けれどそれもまた、あくまで他者との相対化した上で認識する事が、やはり重要な事だと思うのです。