今回はヘッドホンの使いこなしについてなのですが、これはちょっと現在での使い方とは違う話。
それはかつてHD650がまだハイエンドと認識されていた頃の使われ方です。
当時、ヘッドホンのハイエンドは概ね5万円前後と、今と比較するとまだ大分可愛げのある値段でした。
ですがまあ、それでもやはり一般的に言えば大分高価な部類ですし、その感覚はヘッドホン界隈でも同様。
そんな中、ハイエンドのヘッドホンを買い求めるよりも、手持ちのヘッドホンの使いこなしを考える、という主張がしばしば見られました。
その頃は特に気にもせずに受け入れていたのですが、自分であれこれ使いこなしを考えるようになって疑問に思った訳です。
上記の様な使われ方は、明らかにお金を使わずに工夫するという意図で使いこなしと言っていたと思うのですが、一体お金を使わない使いこなしとは何だ?と。
現状で私が考えるヘッドホン使いこなしは、主に以下の様な点です。
・ヘッドホンに使われているケーブル、プラグの変更(バランスへの変更含む)
・可能であればイヤーパッドの変更、あるいは改造
・アンプとの相性の考慮、場合によっては性能を引き出すアンプの新調
後は相性の良い曲探し等もありますが、こちらはどちらかと言うと使い方の工夫であって、音質を引き出すという観点では無いので、ちょっと別カテゴリかなと考えています。
そしてこれらはどれも、どう考えてもそれなりにお金がかかります。
ケーブルの変更は既製品にしろ自作するにしろその為のお金が必要ですし、試行錯誤を含めればそれなりの金額に上ります。
イヤーパッドについてはそもそも対応品があるかも問題になりますし、自作はかなり厳しいためにそもそも工夫自体が難しいジャンル。
アンプとの相性はそもそも複数台持っていることが前提になりますし(その時点でそれなりにお金がかかっている)、新調ともなれば更に出費を覚悟しなければなりません。
第一、当時は今と違いケーブルを変更できるヘッドホンなんて実質的にHD650位で、そもそもその工夫が成り立ちません。
ヘッドホンを分解してドライバへの半田からやり直すなら別ですが、明らかにそんな文脈ではありませんでしたし、そもそもそんな主張をする人たちがリケーブルに意義を見出していたとは思えない。と言いますか、むしろオカルト扱いする側でしたしね。
イヤーパッドについても、当時はそもそも純正品以外の選択肢なんて無いも同然で、交換用の純正イヤーパッドの販売がされているだけでもありがたいというレベル。
ヘッドホンにはめ込む構造が一緒ならば流用できる場合もありましたが、それはかなり稀な場合で工夫するというにはあまりに偶然性に頼り過ぎている。
アンプとの相性については、そもそも当時はヘッドホンアンプを持っているだけでかなりガチの部類に入っていた時代で、むしろそれを検討するのはヘッドホンの(当時の)ハイエンドを買った後というのが一般的な感覚でした。
そのヘッドホンを買うのに躊躇するレベルであればヘッドホンアンプ自体を持っていない可能性が高かったですし、ましてや複数台持っているなんてまず有り得ない。
後は相性の良い曲探し位しか残らない訳ですが、それだって複数ヘッドホンを所有している必要があり、その数が増えてしまうとそのお金でフラッグシップが買えたんじゃ?という本末転倒になりかねません。
どう考えても色々とつじつまが合わず、最終的に至った結論は、恐らくあまり何も考えず使ってたのでは?という物でした。
と言いますか、恐らくスピーカー界隈で使われている言葉を良く考えずにヘッドホンで使ったために、大きな齟齬が出来たのではと考えています。
スピーカーはセッティング次第で大幅に音が変わります。
ざっというだけでも、スピーカー間の距離、向ける角度、壁からの距離、リスニングポイントまでの距離等々。
多くの要素が複雑に絡み合っていて、それらを適切に組み合わせなければスピーカーの本領を発揮させられない。
だからこそ、良い音が出せないからと高いスピーカーに買い替える前に、本当に今のスピーカーの音質をきちんと引き出せているかを考えないといけない。
そういう意味で、スピーカーでは使いこなし(セッティング)をまずは考えろ、という使われ方は極めて一般的であり、それはお金をかけずに可能な工夫です。
ですが、ヘッドホンではそのセッティングに該当する部分はほぼ無いにも関わらず、同じ文脈で使ったのでおかしくなったんだろうな、と今は推測しています。
今更こんな話をしたのは、まず最近ふと思い出したからというのが始まりではあるのですが、似たようなことを自分もやっていないかな?という戒めです。
ヘッドホンに限らずオーディオって体系的に整理されたと言うよりは、様々な人の経験知が積みあがったジャンルだと認識しています。
その為に、使われている用語も学術用語のように厳密に決定されていない事も多く(勿論決まっている物のも多々ありますが)、場合によっては他のジャンルから流用していたり造語だったりするケースも有ります。
私自身もなるべく意図が正確に伝わるように考えてはいますが、どうしても感覚頼りにならざるを得ない面もあり、そもそもの言語化自体が難しい場合も多いです。
だからこそ、これまで自分が使ってきた言葉や界隈で使われてきた言葉に対して、振り返って考えてみる事も有意義なのではと思います。