日記 執着を手放す

 私はVtuberについて熱心に見ている方ではありません。
 一応そこそこ見る方ではありますし、好きだと感じるVtuberも居はしますが、精々切り抜きを見る程度で、配信をライブで見る事はほぼ無いですし、メンバー限定に入った事もありません。
 しかも配信を時々は見るとは言っても一人だけ(犯罪学教室のかなえ先生)ですし。あそこは視点が色々と為になるので。
 とまあそんな程度で割と浅くしか関わっていないのですが、最近某大手事務所で所謂”卒業”(実態としては契約関係の終了だが以降も卒業と記載する)が相次いでいる事態に対して起こっている反応について、少々思う所が有ったのでちょっと書いてみたいと思います。
 個人的には、オーディオ趣味を始め様々な物事に関係するとも思いますし。


 私が凄く気になったのは、上記卒業に対して事態を受け止められず、精神のバランスを崩している様にしか見えない人があまりに多いという事です。
 場合によって事務所に対して、酷い時はその卒業するVtuberに対してすら(ファンであったにもかかわらず)暴言を吐くような人が居たりします。
 個人的にはそんな人間は結局自分の事しか考えていないのでファンとは言えないと認識しているのですが、まあそれだけ熱量を持って応援してはいたのでしょう。
 そして恐らくは、それだけ熱量をかけた物事が、自分が関与できない領域で唐突に終わりを迎える、という経験をしたことが無かったのかもしれません。
 それについてはある程度理解や同情は出来ますが、そういう態度を取る事はただの執着であり、自分を含め誰も幸せにしない、むしろ全員不幸になるだけな事が大半なのです。

 Vtuberが大手の事務所を卒業するのは、それぞれに違う理由があるでしょう。
 場合によっては、どちらかに瑕疵があったり、そこまで行かずとも円満な別れでは無かったのかもしれません。そういう事を想像してしまうからこそ、何とかならなかったのかと思ってしまう事もあるでしょう。
 ですけど、相互が年単位で築き上げ、そこに多くの利害関係者がいる、大勢のファンがいるという状況があって、それでも解消を決断するというのは並大抵のことではありません。
 そして、結局第三者はその人が現在置かれている状況や、契約内容についての詳細は知りようがありません。だからこそ、「何で?」という気持ちがあったとしても、そう決断せざるを得ない何かが有ったのだろうと思うしかないのです。
 その決断を下した当事者こそが、恐らくは一番苦しかっただろうと。

 私自身、自分が10年以上の時間をかけ、また努力もして築いてきたものを手放さなければならなかったことが2度ほどあります。
 それ自体は大して利害関係者は居ませんでしたし、ファンが付くような事柄でもありません。むしろ、同程度のレベルならありふれていると言っても良いでしょう。
 それでも喪失感はそれなりにありましたし、周囲の人間からは勿体ないと言われたことも少なくありません。けれども、私としてはより良い未来を目指すために、実質的に手放す以外の選択肢はありませんでした。
 だからこそ、他人が何かを手放す決断をするときに、それが自分に取ってどれ程残念であっても、その人にとって必要な決断だったのだろうと思う事にしています。未来を良くしていくのためには、それしか選択肢が無かったのかもしれないと。
 そしてもし自分が声をかける事が許されるのならば、感謝と応援を伝えて別れようと思うようにしています。

 Vtuber業界は現在競争が熾烈になっていると言われています。そうで無くとも、不変なものなどこの世にはありません。
 場合によっては、自分にはどうする事も出来ない理由で何かが突然終わり、強制的に別れなければならない事もあるでしょう。
 だからこそ、いざという時に執着してしまわないように、普段から準備しておくことは大切だと思っています。
 特にそれが対人だと、執着は大抵お互いを傷つけたり不幸にするだけだったりするので、特に気を付けた方が良いと考えています。
 そしてそれは何も誰かのファンになったり推すという事だけでは無く、趣味全般についても言えると思いますし、何なら生きていく上で関わる多くの事にも通じると思っています。

 現状私は、「手放せない物は作らない」という考えであり、それはこれまでの経験から凄く大切な事であると考えたからこそ、その考えに至っています。
 それは、「いつでも手放せるように何事も程々に関わる」という事ではありません。むしろ、それは人生をつまらなくするのでは?とすら思います。
 私が言いたいのは、自分がやりたい事、好きな事、対人関係等に対して、自分が許される範囲で全力で取り組む。けれど同時に、それでもいつかは手放さなければならないかもしれないと準備しておくという事です。
 そして先にも述べたように、手放さなければならない時は感謝を持って、それが対人ならば同時に応援等ポジティブな対応で別れようと。
 何もそれは本心では無くて構わないと思います。と言いますか、私自身聖人君子では無いですから、むしろ本心ではネガティブな感情の方が優位な事もある筈です。
 虚勢かもしれません、偽善かもしれません、本心とは別かもしれません。それでもそう行動してみることが大切なのだと考えています。
 何故なら、その虚勢や偽善をどこまで張り続けられるかが、結局は人間性の本質の一つだと思うからです。また、本心はともかくとしてまずはそういった行動を取る事が、結果として自分を変えていく事になるとも思っています。

 最後に、永平寺貫首を務められた宮崎奕保禅師の言葉を貼っておきます。

学ぶという事はまねをするというというところから出ておる。
1日のまねをしたら1日のまねや、それで済んでしまったら。
2日まねしてそれであとせなんだら、それは2日のまね。
ところが一生まねしておったら、まねがほんまもんや。