日記 音楽と感動

 先日GACKTが音楽と感動についてXにポストした件について、様々な人が色々と書いていたので、せっかくなので便乗してみます。
 まず当人のポストした内容は、概略すれば音楽には聴こえる音以外にも多くの要素が含まれており、それらが人の心を支えていた。しかしながら現代は圧縮音源が多くなり、それらの情報が削がれ聴こえる音だけになっている。だから、感動出来なくなっているという物です。
 個人的にはこれはこじつけ気味と感じる面が多く、正直結構的を外しているなと感じます。

 そもそも、現代の圧縮音源が無かった時代、音楽は圧縮されずに、言い方を考えれば音を劣化させずに聴いていたかと言えば、全くそうではないからです。
 確かにレコードを買い、CDを買い、それをある一定上のシステムで再生していた人は、それなりにハイクオリティの音を聴けていたでしょう。
 ですけど、例えばラジオやテレビは普通にかなり劣化した音で、可聴音ですらある程度は削れているレベルです。
 それを受信し再生する側の機構もその大半においては貧弱で、多くの音が削れて届いていたというのが実体でしょう。
 確かに現代の圧縮技術はデジタル化が進んだ先にあるもので、昔の音は現代の様なアルゴリズムによる聴こえない音の排除は無かったでしょう。
 ですが、ではそれらが不足なく届けられ聴かれていたかと言われれば、大半のケースでとてもそうとは言えない状況だったのでは無いでしょうか。

 また、これは個人的な経験からも大きな違和感を感じます。
 まず、私は音楽に対して感動するというレベルの物は、聴いた楽曲数からすれば極めて少ないのですが、その中でもぱっと思いつくものを挙げてみます。
 なお、後の内容を書きやすくするために番号は振ってますが、特に順位という訳ではありません。

1.朧月夜 / 文部省唱歌
2.One more time, One more chance / 山崎まさよし
3.とある少女 / Yellow Studs
4.週末 / suzumoku
5.悲しくてやりきれない / コトリンゴ(フォーククルセダーズ)

 1については学校の授業(小学生の頃)なので、ある意味ライブと言えなくもないですが、演奏は教師のオルガンですし、歌唱も皆で歌いながらと言う状況。
 つまりはプロが作り出すクオリティからはかけ離れたレベルだった訳ですが、それでもそのメロディと言葉の奇麗さに感動した事を覚えています。流石に歌詞の内容や凄さについてきちんと理解したのは大人になってからですが。
 2については中学校2年生の時の、飛行機の機内放送で、使用していたイヤホンは機内に備え付けの物。
 はっきり言って音楽を聴くという環境においては最悪レベルの一つであり、可聴音ですら微細なレベルの物は全てエンジン音にかき消される様な状況でしたが、それでもこんな歌を作れる人がいるんだと感動しました。
 3と4についてはどちらもYouTubeが初聴で、正しく現代の圧縮音源の一つです。
 5については映画「この世界の片隅で」を見に行った際に聴いたものなので、この中では唯一と言って良いある程度音源も再生システムもしっかりした状況での出会いと言って良いでしょう。
 曲自体は有名ですが実は私はこの時初めて知りました。聴いた最初がコトリンゴ版なのでコトリンゴと書いてありますが、オリジナルは括弧書きのフォーククルセダーズです。

 この様に、少なくとも私にとっては、音楽に対する感動はその音源の質にも再生の質にも相関は見出せません。それがたとえ圧縮音源だろうと良い物は良いです。
 むしろ感動するような音楽は、どんな音源で聴いたって感動するのでは?とすら思います。
 では、何故最近は音楽が人を感動させる事が減ったのかと言えば、そこにはいくつかの理由があると考えています。

 まず、感動するという事自体が相対的な物であるという事。
 言い換えると、ハイクオリティな物が増えすぎて、多くの人がそれに慣れてしまい、ハードルが上がっているのではという事です。
 そもそも年数が立てばたつほど楽曲の数はどんどん増えて行きますし、そうなれば必然名曲と言えるようなクオリティの物も増加していきます。
 そして、それら名曲が失われることは基本的にありません。昔の名曲と呼ばれるものは今でも大半の物は普通に聴けますしね。
 そうやってどんどん良い曲が増えて行くので、昔は感動させられたレベルの楽曲が、今では難しいという事が普通に起こっているのではと思います。
 人間が創造する以上、楽曲のレベルを上げて行くにも限度があります。クラシックのように200年や300年前の曲を未だに名曲として聴き続けているのは、その最たる例と言っても良いでしょう。
 ハードルは上がったのに、楽曲のクオリティを上げるのには限界があるのでは、そりゃ感動する機会が減っていくのは当然ではと思います。
 それはより豊かな体験を出来るようになったという事でもありむしろ喜ばしい事で、贅沢な悩みと言ってもいいかもしれません。

 次に、音楽以外でより強い刺激を持ったコンテンツ(ほぼ等価で映像を伴うコンテンツ)が増えた事です。
 基本的に映像を伴うコンテンツは、音楽のみと比べても脳に対する刺激が強いと言われています。
 それでも少し前までは、精々テレビが放送する映像が殆どで、後は映画館に行く、レンタルショップで借りる位しか映像コンテンツにアクセスする術はありませんでた。
 テレビは常に自分が見たいコンテンツが流れている訳ではありませんし、映画館だって同様。レンタルショップはある程度選択の幅がありましたが、それでも余程大きい店舗でもない限り置かれているコンテンツ数は知れていました。
 しかし現在はまずサブスクで極めて多くのコンテンツ、しかも名作と呼ばれるような高い評価を受けたコンテンツに安価で容易にアクセス出来るようになりました。
 恐らくそれだけでも一生かけてすら消費出来ない程に膨大ですが、更にYouTubeTikTok、twitchの様な動画や配信等に関するサービスが多くあります。また、ゲーム関連のコンテンツもこちらに含めても良いでしょう。
 これだけ無数と言っても良い強い刺激に囲まれている中で、音楽を聴いて感動しろというのはまあ難しい話でしょう。
 余程の力を持った楽曲でなければ、人を感動させるのは難しくなっているというのが現状ではないでしょうか。

 最後に、現在は感動と言う言葉を安く使わなくなったという事が挙げられると思います。言い換えれば、昔は結構安易に感動という言葉を使っていたという事でもあります。
 私が経験した限りでも20~30年前位は、割と簡単に感動という言葉が使われていたと記憶しています。「感動の名曲」なんて、一体どれだけ使われたのかと思う程手垢が付いている言葉でしょう。
 ある時期からそれに対して人々が辟易とし始め、感動なんて簡単に使っていい言葉じゃないよね、という意識になって行ったように感じています。感動という言葉に警戒するようになったと言っても良いかもしれません。
 だからこそ今では簡単に感動なんて使わないし、もし使ってしまったらハードルを非常に挙げてしまうので、迂闊に使えなくなっているようにも思います。

 私が簡単に思いつくのはこんな所ですが、これ以外にも考察を深めればもっと沢山出てくるでしょう。
 要約すれば、音楽が人を感動させるのは取り巻く状況が難しくしており、また仮に大きく心を揺り動かす様な体験をしたとしても、感動とは違う言葉で表現されてしまう。とまあ、そんな所だと思っています。
 けれども、では音楽が持つ力が弱くなっている、廃れてしまうかと言えば、私はそうでは無いと思っていますし、起こり得ないとも思っています。むしろ多くのコンテンツにおいて必須であり続けるとも思っています。
 そのとても良い例が現在の映像コンテンツ。確かにそれらは音楽のみのコンテンツを圧倒する程に規模は大きくなっていますが、音楽が伴わない物が一体どれほどあるでしょうか。
 昨今では個人製作の動画ですら、フリー素材等を使ってではありますが音楽を要所要所で使っていますし、商業ベースの物は大抵音楽が効果的に使われています。コンテンツによっては専用で作成さる事も当たり前にあります。
 そしてサウンドトラックのように、映像コンテンツから音楽のみを抜き出したコンテンツすら成立してしまうケースも多くあるのです。

 そもそも音楽とは、今のように商業化するはるか以前から、それこそ先史時代から人々の生活の中に存在していたと言われています。
 それが時代や場所によって様々に形を変えながら現在に続いています。それは今後もきっと続いていくでしょうし、人々の心を大きく揺り動かすことも同様。
 時にはそれを感動するという言葉で形容するでしょうし、もっと違う言葉で形容する時もある、それだけの事なのだと思います。
 そしてそんな音楽は、きっと圧縮されていようがされていまいが、関係なく多くの人の心に響く力を持っていると思うのです。